仏壇・仏具製造の三村松(中区堀川町)は45年連続で金仏壇製造出荷本数が日本一を達成した(宗教工芸新聞調べ)。国内外の自社工場で量産体制を確立。創業160年を迎える2025年に臨み、社主の三村邦雄さんは広島から全国に拡大してきた社業の歩みを振り返り、今こそ必要とされる仏壇の役割を語ってくれた。

-なぜ、広島に仏壇製造技術が生まれ、受け継がれてきたか。飛鳥時代、戦乱の世を平和にまとめようと聖徳太子は仏教の普及に努め、次第に浸透。中でも庶民に強く響いたのが、親鸞聖人が開祖した浄土真宗だった。安芸国では親鸞の高弟、明光上人の法弟が照林坊(三次)や光照寺(福山)を開き布教を始めた。毛利氏の保護の下で門徒が増え、織田信長と石山本願寺の合戦を機に、毛利氏に呼応して多くの門徒が出陣。こうした背景もあり、浄土真宗は広島を中心に定着した。1619年、浅野長晟が紀州和歌山から広島へ転封された際、位牌細工師や錺金具師らが追従。さらに僧の暾高が京や大坂から高度な仏壇仏具製造技術を学んで広めた。広島で仏壇づくりの基礎ができ上がった頃、徳川幕府が寺壇制度を定め、仏壇が普及。江戸末期には西国街道沿いの堀川町、鈄屋町、銀山町などに仏壇問屋街が形成され1865年5月、三村屋嘉助が創業し、礎を築く。大消費地へは船を使って物流を整える一方、量産へ寸法の標準化や徒弟制度、問屋制を確立した。昭和初頭には最盛期を迎えたが、原爆により広島は廃墟に。大竹海兵団にいた父・繁巳(4代目)は九死に一生を得たものの焦土に立ちすくみ、廃業を考えたという。しかし生き残った職人たちの懇願に奮い立ち、再出発を決意。戦後の混乱で苦境にあえぐが、朝鮮動乱による特需、高度成長とともに仏壇業界も拡大発展していった。生活様式の変化や少子高齢化などで、コンパクトでシンプルな仏壇や修復需要が全国的に増えている。一方で木地、狭間、宮殿、須弥壇、錺金具、漆塗・金箔押し、蒔絵の金仏壇づくりで培った七匠の技を寺や神社修復、納骨堂の新築などに生かしている。戦後間もない昭和30年代、「金仏壇を拝みたい」という切実な声が多く寄せられていた。時代がどんなに移ろうと、「手を合わせる」。とりもなおさず感謝の念を忘れないことだと思う。生かされていることへ意識が向けば、心にゆとりが生まれ前を向く力になる。不透明な時代だからこそ、日本人の心のよりどころが必要だ。当社は毎朝、仕事始めに仏様に手を合わせている。三村さんは全国1万強の寺院を擁する浄土真宗本願寺派の全国門徒総代会会長の3期目を務める。

担当記者:藤井

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